10.17.2015

彫刻家の言葉



爽やかなお天気が続いていますね
町歩きが楽しい秋
先日帰省した際
河原町通りの丸善へ行ってきました
地下2階の静かなブース
リニューアルされた新しい書店は空気がなんとなくまだ固い感じがします

喫茶室を出てすぐの
美術書のコーナーへ
彫刻家 船越桂さんの画集の横に
ひっそりと置いてあった
船越桂氏の父であり彫刻家の船越保武氏の一冊
透明感のあるうつくしい表紙に惹かれて手に取りました



砂岩彫りの聖女はきっと触れるとひんやりと冷たいのだろうけれど
頬は柔らかな皮膚で
トクトクと静かに温かな血が巡っているような錯覚を覚えます

自分の心は
一体どこにあるのか・・と
迷宮入りしている最中に
船越保武さんの作品に出会いました
ざわざわと落ち着かない心が、スーッと落ちついていくのを感じます

自分の心の奥深くにある声を聞く静かな場所のようでもあり
灯りでもあるように感じました

〜ご本人の言葉から〜
不定形の荒石を前にして、この石の中に、自分の求める顔が、すでに埋もれて入っている
のだと自分に思い込ませて、仕事にかかるのだが、石の中にある顔を見失うまいとする
心の作業としては、中にある(と思い込んだ)顔を包んでいるまわりの部分を取り除けば
顔が現れて来る訳だ。言葉としては簡単だが、いざ彫りはじめると、石彫りの技術と、その工程に邪魔されて、中にある形を見失いそうになる。
たしかに見えていた筈のその顔が、私の前に現れるのを恥じらって、なかなか現れてこない。作業はいつも捗らなかった。(「石のかけら」)

彫るとは自分の思いを表現する事ではなかった。石の中に宿っている形を白日のもとによみがえらせることだった。

本書からの一節、
若松英輔 光を見る物ー船越保武と芸術の秘儀〜から

言葉を、意味の塊だと考えてみる
すると言語は言葉の一形態に過ぎないことがわかってくる。
私達は言語以外の語りかけからいつも意味を感じている。
風景や沈黙、あるいは出会いにも人は、それぞれの意味を感じて生きている。
言葉は、文字通り、樹木から葉が舞い落ちるように、時機に応じてさまざまな姿をして
顕れる。
哲学者の井筒俊彦は、あるときから言語を越えた意味そのものを示す言葉を、
「コトバ」とカタカナで書くようになった。哲学者や文学者はたしかに言語をコトバとして使う。しかし画家はどうだろう。彼らにとって色がコトバであり、線がコトバとなる。
音楽家には旋律がコトバとなるだろう。
彫刻家にとってかたちがコトバである。




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